ココロとカラダ
このテーマで書くのは、実はとてもしんどい作業なのですが。あえて2000年を振り返る意味でも文章にしておきましょう。長いよ。
このサイトを作るにあたって、映画やライブのリストを作成しました。そのために、過去の日記を読み返しました。想像以上に弱りきった自分がそこにいました。しんどい日々でした。
日記をweb上で書き始めたのが、2000年2月6日から。仕事(営業職)が繁忙期どまんなかの頃です。日々の実務に追われていました。打ち合わせ、会議、見積もり作成、伝票記入、検品…。早くても帰宅は9時頃。ひどいときには深夜までの残業。売り上げをあげるため、ミスを起こさないため、顧客満足のため、いい作品を作るために必死に努力しました。今、振り返ってみると自分でも可哀想なくらいに「がんばって」いた気がします。車を運転しながらおにぎりを食べるなんてことが当たり前の生活でした。最後の頃は、ほとんど昼ゴハンも食べられませんでした。緊張の連続。平日にライブに行こうと思ったらその前後には無理矢理仕事を片づけなくてはいけませんでした。実はこれがかなりきつかった。(もちろん、つらいことばかりではなくて、楽しいことや嬉しいこともあったんですけどね。)
でも、何よりもつらかったのは3年間働いてきて、営業職が自分に向いていないことがはっきりとわかってしまったこと。数年後の自分の姿=こうなりたい、こんな仕事をしたいという夢がまったく見えないまま日々のあれやこれやに忙殺されてしまったこと。自分は営業のプロになりたいんじゃない。企画のプロを目指すべきだ。そう確信を持ち始めていたのに時間は過ぎていく。営業メンバーも少ない。自分が抜ければ大きな迷惑がかかる。将来の展望がないまま私は今の仕事をしていくのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていました。
それでも繁忙期はまだよかった。物事を深く考える暇すらなく突っ走るだけですから。ちょっと落ち着いてきた春頃から、私の悩みは一気にふくらみました。今まで気付かない振りをしてきた感情がおさえきれなくなっていきました。仕事に疑問を感じ始めたのは99年の夏くらいから。その疑問が1年もしないうちに、大きなストレスになって神経を圧迫していきました。すごいですわ、カラダとココロってこんなにも密接につながっているとは。自分でも驚きです。カラダのあちこちに、ありとあらゆる症状が出ました。
まず熟睡できない。当然、朝起きられない。それでも、やらなきゃいけないことが山積みだから出社。営業のフロアに入った時点で頭痛、動悸、腹痛、胃痛。ふらふらしていました。それでも、得意先や社内では元気な振りをしているわけです。でも徐々に、遅刻したり、休みがちになったり。出社しても、しんどくて休憩室で寝ていたり。円形脱毛症にもなったし、食欲不振か、もしくは過食のあげく吐くとか、どんどん症状はひどくなる一方。
土日は映画やらライブにも出かけていたのに、何もしない日々。ずっと家に閉じこもってひたすら寝る。でもいくら寝てもカラダはちっとも楽にならず、また月曜日を迎える。
カラダの不調に伴って、仕事もトラブル連発。悪循環ですね。このころの日記はしんどいとか鬱とか眠れないとかそんな記述ばっかり。ほんとにしんどかった。だんだんと、近くの人は私の異変に気付いていました。元気な素振りなんて出来なくなっていたし。それでも働いていたって、一体なんだったのでしょう?へんに強がりの私は、仲の良い友人には相談もできずに一人で悩み続けていました。もう限界だと思って、先輩に相談して心療内科に行ったのが6月。ストレスが原因なのは明らかでしたから。そこで、医者から言われた一言が「随分、疲れてるね」。頷くしかなかったです。「はい/いいえ」で答えるちょっとした心理テストみたいなことをやってから、少しずつ今の症状、現状を医者に話しました。診断結果は、ああ、やっぱりという病名。あえてここには書きません。そして、このまま今の仕事を続けていったらもっと症状はひどくなるという脅し(笑)も受けました。薬ももらったけれど、あまりに強くて副作用も大きい。それはそれでやっかいでした。
病名がはっきりしたことで、逆に私は冷静になりました。さて、これからどうしよう?
選択1:仕事を辞める
選択2:会社は辞めずに部署を変わる
選択3:このまま無理を続ける
どう考えても3はありえません。こんなしんどい思いはもうこりごり。では1はどうでしょう? 辞める→お金がない→仕事を探す? これは大変。就職活動なんてもう嫌です。てゆーか、この不景気。自分のやりたい仕事を見つけるのはきっと難しいに違いない。
じゃあ、辞める→お金がない→結婚してダンナのお金で生活する? そもそもダンナ候補がいない。そして自分は専業主婦っていうタイプではない。明らかに無理。
じゃあ、辞める→お金がない→実家で生活? これも却下。文化未発達の地元。あそこじゃ生活できません。ライブにも演劇にも映画にも不自由するのは目に見えています。そして親からの干渉。きゃー。考えるだけで気が滅入ります。というわけで1も無理。
残るは2。てゆーか、最初から2しか考えていなかったけど。自分の3年半のキャリアを活かせるし、営業をしていたという事実は部署が変わることで逆に誰も持っていない強みになるわけです。物は考えよう。嫌いだった役職者とも事業部が変わればお別れできる。わーいわーい。もともと、企画志望ということは社内のいろんな人(特にエライ人)には話していたので、多分志望のところに配置してもらえるだろう。そんな展望もありました。日本社会では根回しは重要です。まじで。
で、上司に半ば泣きながら現在の体調と異動のお願いをしたわけです。当時の上司は、私が入社したときからとても可愛がってくれていました。同じ女性、数少ない女性の外勤(当時、同じ営業セクションでは私だけだった)ということもあって心配をかけ通しでした。ぽつりと「高い壁は無理して登らんでもいいもんな。」と言われたことが心に残っています。
それからが、さあ大変。どたばたと内密に異動が決まり、同じ営業セクションのメンバーに発表。彼らにしたら寝耳に水。これでも私は、中堅どころだったので年間売り上げ@億円という数字も持っていました。それが、突然他のメンバーに強制的に割り振られていきました。内心、いい気分ではなかったでしょう。カラダを壊していることも、ましてや病院に通っていることも、当時の上司と、異動先の上司、チーフしか知りません。突然、勝手に異動決定。しかも数週間後。引き継ぎやら挨拶やらでてんてこ舞いです。なんて理不尽な話だと怒っていたかもしれません。今でも営業のメンバーには悪いことをしたと思っています。でも、仕方なかったとも思っています。最終的には、温かく送り出してくれたメンバーに感謝感謝です。
というわけで、カラダは徐々に快方に向かいつつも、いまだに気分がどかーんと落ち込むことも多々あるわけで。完治することはないのかもしれません。それでも、まわりからは「顔色がよくなった」「元気になった」とかいうことを言われたりもしているのでまあ、よかったんでしょう。
仕事を変わったことで、また一歩自分のやりたかったことに近づいたから、結果的には「結果オーライ」ってことで。今まで、自分ではそういう病気とは無縁だと思っていたから、いろいろと考えますね。
で、結論。
結局、何が言いたいのかというと、がんばりすぎちゃっている人、気をつけてってこと。自分がいなくちゃこの仕事はできないなんていうのは思いこみ。誰かがやってくれます。
それと、がんばるって言葉はあんまり好きじゃない。がんばらなくていいよ、って思う。だから、私は人にも、極力がんばってとは言わないようにしている。それよりも、マイペースでのびのびやっていくことが大切だと思うから。自分を大切にできるのは自分しかいないんだから。自分のフィールドで力を発揮する。自分のやりたいことを見つける。夢を実現させる。それがいちばん大事。当たり前のことにようやく気付いた2000年なのでありました。磯野テルオ氏が本格始動する前に治ってよかった……。って結局、オチはそこかい(笑)!
(2001.01)
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